自分探され

お久しぶりです。最近暑い日が続いていますが、インターネットの皆々様におかれましては空調の効いた部屋で益々ご健勝の事とお慶び申し上げます。

僕はと言いますと、この数ヶ月というものめっきり鬱めいてまいりまして、明けても暮れても訳の解らない人生哲学、にもなりきらない様なぐちゃぐちゃの思考の渦に呑まれきっております。どのくらいぐちゃぐちゃかと言うと、ご飯に納豆ととろろと生卵とめかぶともずくとナタデココを入れて生クリームとかをかき混ぜる時に使うあの変な機械でかきまぜた後の状態くらいぐちゃぐちゃです。ご清聴ありがとうございました。

それでこの間、大学にある学生相談室という所に行ったんです。それは相談したかったから、というよりむしろ、自分の考えている事に対してカウンセラーという心理とか考え事のプロの方の意見を聞いてみたかったからなのです。

ところが、いざ話してみるとなかなか上手に自分の思っている事、考えている事がお話出来ませんでした。何らかの限定された条件や意見に対して、瞬間的に自分の考えた事をお話する事は出来るのですが、大きな枠で自分とはこういう考えを持った人間であるという自己紹介が出来ないのです。

それは特に最近の自分に顕著で、そういった瞬間的な考えすらも「自分は本当にこう思っているのか?」と自分でうたぐってしまい、結句相手に何も申し上げられずに「まあー、色々あるよねー」などと仕様の無い事を言って終わってしまうのです。

ですので、かつてのもうちょっと固定的な思考のあった頃の自分を省みようと思い、この1年くらいの日記を読み返してみたら、自分はとてもいい事を言っていてとても正しい考えをしていてかつ文章もとても面白くてこのブログは本当にいいブログだなー、と思いました。ご清聴ありがとうございました。

ただ法のみを求めてみたところ

本日は麻疹よりもはるかに恐い病気であるところの五月病に打ち克つべく、勇気を振り絞って大学に行ったというのは今日が自分のゼミ発表の日であったからである。

5限のゼミに向けて朝10時から必死に意味不明の漢文を読み解きなんとかレジュメを作り上げ、ぼそぼそと陰気に発表をしたところ、教授の方から「どっかの本から引いてきたみたいに上手な文章やね」とお褒めの言葉をいただき、自分はああ嬉しいなと素直に思った。そして、勉強って楽しいな、これからは学校に行くのが少し楽しみになったな、というような事を全く思わなかったというのは即ち現実というやつである。

人生は映画や小説の様に小奇麗にまとまったものではない。だからこそ人は映画や小説に熱を上げ、また憧れるのである。


数日前から喉の奥に何かが張り付いている様な異物感があり、何かの病気か何かだったら恐いな、と危惧している。煙草のせいとかもあるんかな、と思って控えようかな、と思って結局控えていない。

いつも感情は曖昧なまま、僕達は老いて死んでいくのだ。極めて刹那的な存在だと思う。

まんが

ここしばらく一人の夜は専らインターネットの魔法で手に入れた水曜どうでしょうを観る事に専念していたのですが、ついに5年間分の放送をほぼ完全に制覇してしまったので、またインターネットの魔法で手に入れた漫画を読み始めました。それでオーバードライブっていうチャリンコの漫画を読んだのですが、めっさ面白いので面白かったです。別に話や絵が特別すごいって訳でもなくて今まであったものの再構築っていうか、普通にベタをやっているような漫画で、「僕は……変わるんだあああ」とか言ってアホみたいにチャリンコ漕ぎまくってるだけなんですけど、最近はそういうのが泣けて仕様が無い。「そうだよ……変わるんだっ……俺達はっ……頑張れ……頑張れっ……!」とかカイジに出てくる人みたいになってグスグス言ってる。でも僕はこういうのに熱しやすく冷めやすいので、最新刊まで読んでしまった今、次の巻が出るまで楽しみに出来るか解らない。アイシールドやあひるの空も以前「頑張れっ……!」て言いながら読んだけど、それ以降読んでない。でもこういうベタのスポーツ漫画は大体ある程度は面白いので好きです。
昔僕もベタをやりたくて、サッカーの小説を書こうとしたんだけどすぐ飽きてやめました。最近またベタの魅力に気付きつつあるのでもう一回やりたいなあと思いましたがどうせまた飽きそうで嫌です。変わらない場当たり的な自分。

しょこたんとそれとはあんまり関係ない僕の叙情

世間では今、しょこたんという人物の綴るしょこたんぶろぐというのが一世を風靡しているらしい。

僕は昔から若者の間で流行っている物が苦手で、もっと言うと嫌悪感を持っていた。だからかっこいい洋服を着るとか最新のJポップに熱を上げるとかロンドンブーツの番組を観るとかYOSHIの本を読むとかそういう事は一切しなかった。そうやってちゃらついてる奴は今はぴいぴい言って楽しいかもしんないけど、碌な人間になりやしねえよ、などと嘯いて自室に篭り、よくわからないドラムンベースなどの音楽を聴いて悦に入っていた。

でも今はそういった物が色々許せる。

からしょこたんの使う様な言葉なども、昔なら「日本語の崩壊だ、若者による日本文化の瓦解だ」などと喚いて否定の限りを尽くしただろうけれど、今だったらもうギザ許せる。2ちゃん語とかにしても単純にこういうのは面白いものなんだと思う。猿真似してるだけじゃ成長はしないけど、でも猿真似するだけで面白いものがあるんならそれはそれでギザ楽しい人生だし、生き方として一つの正解なんだとギザ思う。

大人の階段を上るにつれて絶対的に信仰するようなものが無くなったかわりに、頭ごなしに否定するものも減ってきた。色々なものを寛大に受け入れられるようになった。多分最終的には、殺人鬼も聖者も凡人も宗教も科学もUFOもみんな受け入れられるようになるんだろう。

僕はいつか確かにそういうものになりたいと思った。僕はそういうものになりつつあるけれど、なんだかあまりにも感情的でなさ過ぎて人間らしくないような気もする。でも感情的である事はやっぱり嫌だと思うんだ。感情的になるといい感情もたくさんあるんだけど、悪い感情もたくさん混じってしまう。だからつい、なるべく感情的でないフラットな視線を保とうとして、結果的に生きててつまんなくて、お酒なんかで感情的になった時にちょっと面白くってすぐ後悔してまたフラットをやってしまう。

僕はどこに向かえばいいんだろう。ギザ悩めるお。

ポエミーな俺の叙情

最近文章を書きたい意思がとても高まっているのだけれど辛い時、苦しい時に書く文章というのはその辛さ、苦しさの吐露でしかなくなってしまうから駄目であってあんまり書けない。周囲が就職活動に躍起になっているから、という訳ではないにしろ、僕も文筆業を将来の生業にしたいと思っている身としてその様な文章を書きたがっている。しかし書けない。というのは単純な練習不足もさることながら、僕の身体の周りに辛さ、苦しさ、寂しさの薄い膜が覆っていて、必要以上に感情的になり、その感情に対して刹那的になってしまうのだ。仕事としての文章というのはもっと大局的な視点から冷静に書くものだと思うし、事務的であるべきだと思う。だから今のこれみたいな感情的な文言を書き連ねる事は出来ても、描きたい事を効果的に描く事は出来ないし、金になるような文章を書けない。
ここしばらくの荒み乱れた生活、精神に基づいて書いてしまうと、僕は多分人に抱き締めて欲しいだけなのだ。っていうか人って皆そうなんじゃないかと思う。
そういうものの根底にあるのは結局の所、性欲なのだ。これは先日サークルの後輩にも話したのだけれど、人間が知性を発達させて動物と人類の差別化をしようとした時、衣食住を形式化し言葉によって装飾を施す事で動物的な欲望の体裁を繕った。簡単に言うとお洒落とされるレストランに行って、正装とされる服を着飾って、マナーという作られたルールの中で作法どおりの食事をしている。それはきっと世界的にも標準化して認められた人類としての答えなのだろうけど、性欲だけはいまだ社会的に隠された欲望なのじゃないかと思う。だって性欲というものの行き着く先はセックスなのに、セックスを公の場に解放する事は一部を除いてほとんどされていない。僕にはそれが人類が隠しきれない動物の部分に皆でモザイクをかけて誤魔化しているように見えるのだ。
こういう事を言うとあんまり解ってもらえないのかもしれないけど、皆の前でご飯を食べて「うまいうまい」という事は認められて、皆の前でセックスをする事が認められないというのは僕はそれは人類の嘘だと思う。別に現実にそうなるべきだとか俺がそうしたいとか言うのとはまた違う。ただそういう事が気になるだけです。だから恋愛映画やラブソングみたいな世間一般で「感動します」とかなんとか言われているものと、アダルトビデオみたいなドロドロした印象のあるものは、確かに違うものではあるけど本質的には変わらないと思うのだ。それはなぜかと言うと「愛」があるから「セックス」が出来たんじゃなくて、「セックス」が最初にあったから「愛」という概念が生まれたからだ。
僕は小さい頃から恋愛とかを描いた映像作品や歌や本が苦手で、やたらとそういうものを見ることに違和感があって恥ずかしかったのだけど、それは何故かというとそういうものの根底に性欲が絡んでいたからなんじゃないかと今は思う。皆そういうものの話を平気で喋っていて、性欲を上手にデコレートした気になっているけど、全然隠せてないと思うよ。っていうのは逆説的に言うと隠すから恥ずかしい訳で隠さなければいいんだけど、今の人類がいっぺんに性欲を解放したらここまで形作った社会がめちゃくちゃになるし絶対無理だからそれは絶対無理で、やっぱりなるべくしてこういう形になったんだなあとは思う。40世紀くらいになったら変わるのかもしれないけど。
こういう話ってもっとちゃんと説明すればきっと解ってくれる人もいるんだろうけど、絶対解ってくれない人もいるんだろうなと思う。それはその人がこの時代に生まれてこの時代の価値観の中に生きようとしている人だからで、それは正しい事だと思うんだけど、そうでない視点を持つことも出来たらきっと世の中はもっとよくなると思う。時代の価値観の中に生きる危険は、大量虐殺を正義としちゃったりカースト制度などの差別に何の疑問も持たなかった時代がある事から解ると思う。人間は随分色んな事を解った気でいるけど、まだまだあんまり解ってない事が多いという事を自覚して謙虚に生きてくべきだと思います。偉そうな事を言ってすいません。本当は世の中がよくなる事とかに別にあんまり興味ない。
何が言いたいかと言うと普段は恥ずかしくて言えないけど酔っ払った勢いで言うけど、俺は寂しいから抱き締めてくれって事です。人間なんてそんだけの存在。所詮は僕らアニマルなんです。わきまえた方がいいよ、という自戒。

感情の共有

感情を共有するのは楽しい。中村航の本を読んでいたら「仲良しは世界三大美徳の一つだ」という表現があったけれど、仲良しというのは感情を共有する事なのかなと思った。
例えば「昨日のあのテレビ見たー?」「見た見たー、ちょうウケるよねー」とか「あの時のアイツが面白かったんだよなー」「そうそう、ちょうウケたよなー」という様な内容が無かったり何度と繰り返された思い出話が楽しいのは、そこに感情の共有があるからだ。感情の共有は親近感を高め、コミュニケーションの潤滑油となる。それって仲良しって事じゃないだろうか。
また、思い返してみると感情を共有出来なかった人間関係というのはあんまり上手くいったためしがない。個人対個人でいっても団体の中における自分でいっても、感情の共有が上手くいかないとその人間関係も上手く流れていかないのだ。
今僕が抱える無気力や退屈は案外そんなところに原因があるのかもなあ、という感情を共有してくれる人もいない。さびしい。

人生断面図

ここしばらく飲料といえば酒かコーヒーしか飲まない生活をしていたら、ふとした時に飲むお茶がやたらと美味い。特に水道水で作った安い紙パックの麦茶が異様に美味くて、一回飲みだすと一気に1リットル近く飲みそうになってしまうのでまずいと思って慌ててウイスキーを煽ったりしていてなんだかよく解らない感じになる。

先日、この引きこもり生活から脱却すべく勇気を振り絞ってバイトの面接に行ってきて、その調子で社会復帰をすべくレポート提出のために大学にも行った。すると神様というのはいるもので昨日、ここ数ヶ月の懸賞生活がついに結実し現金1万円が当選したという知らせが入って乗りに乗っていたところにバイト不採用の知らせが入ったりしてなんだかよく解らない感じになっている。人生は流れ続けている。