ポエミーな俺の叙情

最近文章を書きたい意思がとても高まっているのだけれど辛い時、苦しい時に書く文章というのはその辛さ、苦しさの吐露でしかなくなってしまうから駄目であってあんまり書けない。周囲が就職活動に躍起になっているから、という訳ではないにしろ、僕も文筆業を将来の生業にしたいと思っている身としてその様な文章を書きたがっている。しかし書けない。というのは単純な練習不足もさることながら、僕の身体の周りに辛さ、苦しさ、寂しさの薄い膜が覆っていて、必要以上に感情的になり、その感情に対して刹那的になってしまうのだ。仕事としての文章というのはもっと大局的な視点から冷静に書くものだと思うし、事務的であるべきだと思う。だから今のこれみたいな感情的な文言を書き連ねる事は出来ても、描きたい事を効果的に描く事は出来ないし、金になるような文章を書けない。
ここしばらくの荒み乱れた生活、精神に基づいて書いてしまうと、僕は多分人に抱き締めて欲しいだけなのだ。っていうか人って皆そうなんじゃないかと思う。
そういうものの根底にあるのは結局の所、性欲なのだ。これは先日サークルの後輩にも話したのだけれど、人間が知性を発達させて動物と人類の差別化をしようとした時、衣食住を形式化し言葉によって装飾を施す事で動物的な欲望の体裁を繕った。簡単に言うとお洒落とされるレストランに行って、正装とされる服を着飾って、マナーという作られたルールの中で作法どおりの食事をしている。それはきっと世界的にも標準化して認められた人類としての答えなのだろうけど、性欲だけはいまだ社会的に隠された欲望なのじゃないかと思う。だって性欲というものの行き着く先はセックスなのに、セックスを公の場に解放する事は一部を除いてほとんどされていない。僕にはそれが人類が隠しきれない動物の部分に皆でモザイクをかけて誤魔化しているように見えるのだ。
こういう事を言うとあんまり解ってもらえないのかもしれないけど、皆の前でご飯を食べて「うまいうまい」という事は認められて、皆の前でセックスをする事が認められないというのは僕はそれは人類の嘘だと思う。別に現実にそうなるべきだとか俺がそうしたいとか言うのとはまた違う。ただそういう事が気になるだけです。だから恋愛映画やラブソングみたいな世間一般で「感動します」とかなんとか言われているものと、アダルトビデオみたいなドロドロした印象のあるものは、確かに違うものではあるけど本質的には変わらないと思うのだ。それはなぜかと言うと「愛」があるから「セックス」が出来たんじゃなくて、「セックス」が最初にあったから「愛」という概念が生まれたからだ。
僕は小さい頃から恋愛とかを描いた映像作品や歌や本が苦手で、やたらとそういうものを見ることに違和感があって恥ずかしかったのだけど、それは何故かというとそういうものの根底に性欲が絡んでいたからなんじゃないかと今は思う。皆そういうものの話を平気で喋っていて、性欲を上手にデコレートした気になっているけど、全然隠せてないと思うよ。っていうのは逆説的に言うと隠すから恥ずかしい訳で隠さなければいいんだけど、今の人類がいっぺんに性欲を解放したらここまで形作った社会がめちゃくちゃになるし絶対無理だからそれは絶対無理で、やっぱりなるべくしてこういう形になったんだなあとは思う。40世紀くらいになったら変わるのかもしれないけど。
こういう話ってもっとちゃんと説明すればきっと解ってくれる人もいるんだろうけど、絶対解ってくれない人もいるんだろうなと思う。それはその人がこの時代に生まれてこの時代の価値観の中に生きようとしている人だからで、それは正しい事だと思うんだけど、そうでない視点を持つことも出来たらきっと世の中はもっとよくなると思う。時代の価値観の中に生きる危険は、大量虐殺を正義としちゃったりカースト制度などの差別に何の疑問も持たなかった時代がある事から解ると思う。人間は随分色んな事を解った気でいるけど、まだまだあんまり解ってない事が多いという事を自覚して謙虚に生きてくべきだと思います。偉そうな事を言ってすいません。本当は世の中がよくなる事とかに別にあんまり興味ない。
何が言いたいかと言うと普段は恥ずかしくて言えないけど酔っ払った勢いで言うけど、俺は寂しいから抱き締めてくれって事です。人間なんてそんだけの存在。所詮は僕らアニマルなんです。わきまえた方がいいよ、という自戒。